時間の厚み

f:id:mame90:20170930175431j:plain:w300
以前、ユーロスペースで「ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る」という映画を見た。オランダの王立オーケストラの創立125周年記念ワールドツアーを追ったドキュメンタリーで、演奏する側、聴く側の人生に音楽が重なってくる。中でも冷戦下、強制収容所に収監されていたロシアの老人の話は強く心に響いた。

映画のキャッチコピーは「聴くものが人生を重ねる時、音は初めて音楽になる」
見終わった後にずしっとくる、いいコピーだなと思った。音楽ってそういうものだったのか、と新しい景色を見たような気持になる。

さて、私がコアラを見るために足繁く通う埼玉県こども動物自然公園の最寄り駅、東武東上線高坂駅には「彫刻プロムナード」なるものがあって、歩道にたくさんの彫刻が展示されている。
なぜ?地元の彫刻家?と疑問に思いながら、常日頃バスの窓から眺めていたが、東松山市のホームページによると「1982年、当市で彫刻展と講演を開催したことが縁となった、故高田博厚氏の彫刻」とのことらしい。

一人の人の彫刻だったのか。いろんな人の彫刻なのかと思っていた。
先日、動物園帰りにバスに乗らず、駅まで歩いてみることにした際、ようやくこれらの彫刻をきちんと見ることができた。
…いや、別に特に「見たい!」と思っていたわけではないけれど、歩いている最中、向こうが相当なインパクトで目に飛び込んできたのだ。

最初に出会ったのは新渡戸稲造
お!稲造じゃん!5000円札変わってから久々に会ったな、ていうか、すごいデコだな。おでこシックスパック。誰の作品?なんで稲造?
軽い気持ちで台座に作者名を探すと、コメントにぶつかる。

私の人物像は「似ていない」とよく言われる。ある一時の面(つら)しか見ていない者はそう思う。当然だろう。けれども、本当の肖像彫刻というものは、(私が考えているところでは)「人間」の容貌にそれが経てきた「時間」の層、その厚みが出なかったら意味を失うだろう。    作者

この時点で作者が誰なのか、私はまだ知らない。
が、「ひいいい、ここまで言い切るとは相当のお方なんでしょうねえ・・・すみません、すみません」と恐縮してしまう。
まあ、好きだよ、こんぐらい言う人。
f:id:mame90:20160906143103j:plain
こちらは東松山市ホームページに載っている、横から見た新渡戸稲造。「髪の毛は、乗せるだけ」みたいな。

これは棟方志功

横から。やはりデコがすごい。ほぼ頭頂部まで後退している。

こちらはタゴールさん。インドの詩人で思想家。
どれも共通して額が強調されているので、作者の言う「経てきた時間の層、その厚み」ってデコのことなの…?なんて茶化しながらも、あのロイヤル・コンセルトヘボウの映画の「聴くものが人生を重ねる時、音は初めて音楽になる」っていうコピーも思い出していた。
積み重ねてきた時間、人生、そういうものに心打たれるようになったのは年をとった証拠かしら。


さて、こちらは埼玉県こども動物自然公園の赤ちゃんコアラ、ニーナ。去年9月27日に生まれたとのことで、もう1歳になる。会いに行ったのはお誕生日の少し前。もうすぐ1歳になるけど、まだママにひっついて眠る。

「いつまでも甘えん坊で困るわー」みたいなママ。

それでもやっぱり、顔がずいぶん大人になった。目元はママにそっくりね。


この頃に比べて、どうして大人に見えるのか、考えたらそれは、デコが広がって、顔が伸びて、鼻よりも目が高い位置に行ったから?

そう思うと、あの彫刻家の方が言う「経てきた時間の層、その厚み」って言うのはやっぱりデコに出るものなのかもしれない。
人は時間の厚みを彫刻で再現しようとしたり、音楽に重ねて胸震わせたり、コアラの1歳を祝ってみたり、少しさみしく思ったりしながら時を重ねてゆくの。