ウィーンはいつもウィーン

小学校高学年になると音楽の授業は音楽室に集められて、月に1度はレコードでクラシックを聴く音楽鑑賞があった。ドキドキしながら音楽室に行って、最初の音楽鑑賞はヨハン・シュランメルの「ウィーンはいつもウィーン」だったと思う。
変なタイトル、というのが感想だった。ウィーンがウィーンじゃない時があるのかよ、と。そんなことばっかり気になって曲自体はあんまり覚えていない。

Marsch Wien bleibt Wien!
こんなだったっけね。
大人になっていろんな経験を重ねると、なんとなーーーーく、このタイトルの意味が慮れるようになる。実家はいつも実家、みたいな。久々に帰った時の安心感と、実家ってマジで昔から実家だな!みたいな驚きや呆れや嬉しさ。

だが、語りたいのはそんなことじゃない。猫のうんこの話だ。うんこはいつもうんこ、ということだ。
久々に猫を飼うことになったとき、まず調べて驚いたのは猫のトイレのことだ。昔、猫を飼っていたときにはなかった「システムトイレ」なるものがこの世に誕生していた。システムトイレ!

このタイプのトイレは2段式になっていて、上のすのこにヒノキ等のチップを入れ、うんこはチップの上に残る。おしっこはチップとすのこを通過して下のトレーに落ちるが、トレーにはおしっこシートがひいてある、という物だ。
謳い文句は「掃除が断然に楽!」「シートは1週間交換不要、チップは減った分だけつぎ足せばOK」「強力脱臭で匂わない」ということ。
はあ~、時代はずいぶん進化したのだなあ。昔みたいに固まるおしっこ砂がメインではないのだな。猫飼い先輩の友人も使用しているというので購入した。
確かにおしっこはにおわないと思う。すごい。高いだけある。が、うんこは違う。うんこの存在感。曲がりなりにも猫は肉食だ。久々に匂いをかいでオウ!!となった。
システムトイレは匂わないのではなかったか。使い方が悪いのか、と疑問にも思って調べた。使い方はあっている。
うんこのたびに毎回、オウ!と思いながら片づけて、猫には「うんこ泥棒!」とでも言うような目で見られる日が3日も続けばいい加減悟る。
現代の技術をもってしても、うんこを無臭にすることは不可能。うんこはうんこ。うんこが匂わなくなったら世も末だ。うんこは臭くてあたりまえ。
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朝、家を出て12時間後に帰宅すると、もう玄関を入っただけでわかるうんこの香り。成長とともにうんこもどんどんデカくなる。しかも二匹分だ。山盛りのうんこ。充満するうんこ臭。
この冬の間、私はどんなに寒くとも帰宅するなりすぐに窓を開け放ってきた。そしてコートも脱がぬまま、まず猫に餌をやり、大人しくさせておいてトイレ掃除に取りかかる。うんこを回収し、おしっこシートを交換する。1週間持つおしっこシートは高価な上に、1匹なら1週間もつが2匹では無理だ。それで安いシートを毎日交換することにした。
トイレがきれいになった頃、空腹も一旦落ち着いた猫たちが、追いうんこにやってくる。もう奴らの行動パターンはお見通しなので、私はちゃーーーんと待機しているのだ。そして追いうんこも回収後に掃除機をかける。

毎日の事なのでさすがに彼らももう掃除機を怖がりもしなくなった。
掃除機をかけ終わってから初めてコートを脱いで着替えるのだ。これが俗に言う「猫様の下僕」ってやつだな。まあしょうがない。
なにしろうんこが片付かなければこちらも落ち着かないのだ。
うんこの残った尻を壁にすりつけられることもある。お尻にうんこをぶらさげたまま部屋を歩き、そこらでポロリと落としてきたこともある。ゆるいうんこを踏みつけたその足で床を歩かれることも、ゆるいうんこをじゅうたんにすりつけられたこともある。

だからこそ、目の前でうんこをされたらすぐに片づけることにしている。「よしわかった!あとはお任せあれ!このワタクシ目に!」と。
そしてうんこの様子には常に注意を払っている。
うんこはいつもうんこ。それは真実であって真実ではないのだ。毎日違う。ゆるければ何が悪かったか考える。硬くてもまた考える。色味を見ても考える。仕事中もふとした隙に会社のパソコンで「猫 うんこ」などと検索する。
時折ハッと我に返る。なぜこんなにもうんこの事ばかり考えているのかと。それも猫のうんこだ。
ワクチン接種も去勢も終わり、投薬期間もすぎ、最近うんこも落ち着いてきた。
「いいうんこできたね~」と、ムツゴロウさんか岩合さんのように猫に声をかけたりする。
いい日も、悪い日も、毎日うんこを見続けてきたからこそ、今私は思うのだ。
「うんこはいつもうんこ」
うんこって本当にうんこだな!その安心感、驚き、呆れ、若干の滑稽さ。
そして生きていることの実感。