妄想民族

昨夜は父とレイトショーで周防監督の最新作「カツベン!」を見てきた。

なんと観客は私と父の二人きりであった。まだ封切りされて間もないのに何たること。スター・ウォーズターミネーターやアナ雪に押されているのだろうか。
映画の黎明期を題材にした物語なので、テンポはわりとゆっくり目で2時間半くらいある長い話だ。

一番最後にスクリーンに「かつてサイレント映画の時代があったが、日本には存在しなかった。なぜなら活動弁士がいたから」という説明が映し出されて、そうなのか、と驚き、父に「あれは日本独自の文化だったんだね」と感想を伝えたところ、父は得意げに「ほら、映画の中でもあの昔の弁士が言ってただろ、”言葉はいらない、見ればわかる”って。西洋の映画はそれなんだ」と言う。

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言葉はいらない。見ればわかる。何が起きたか。猫。

以前に河鍋暁斎歌川国芳の浮世絵で放屁合戦や水滸伝を見たときに、「ああ、漫画的表現というのは日本の伝統芸能なのだな」としみじみ感心したことがある。
また、そんな江戸時代の絵師たちが西洋画にものすごく刺激を受けていたという文献にも衝撃を受けた。彼らが何に驚いていたかって「見たものをそのまま描く」という西洋の手法に驚いていたのだ。

ああ、そうか。そう言えば日本では「見たものをそのまま描くってことしないよなあ」としみじみ思う。何故かしら。
何故見たものをそのまま描くということをこの国は選択しなかったのかしら。とても不思議だ。

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有名なこちらとか。
今で言うところの「映え意識」で盛り盛りだ。時空まで歪めるアレだ。
サービス精神旺盛というか、「俺の目に映る景色はコレだから。常に美しいものを見たいじゃん?」とか言う意識の高さ故か。
波のありえない高さ。そして富士山の鋭角さ。
そりゃあ太宰治も驚いて書きたくもなるだろう。

実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。
                太宰治富嶽百景

だがしかし、我々観る側もこれを求めてきたのだ。見たままありのままを表現してくれるよりも、映えを意識して加工してほしかったのだ。事実を事実として見るよりも伝える側の美意識や想像力をそこに加えてほしいのだ。

活動弁士の物語でも随所でそういうことを感じた。
弁士の力でつまらない映画も面白くなり、面白い映画もつまらなくなり、悲恋がコメディにも、コメディがシリアスにもなり得る。
見ればわかる映画にいろんなフィルターをかけることができて、そして我々日本人は「見ればストーリーがわかる」ことよりも弁士のフィルター表現の方を選んだのだ。


面白いもんだな。想像の余地、妄想の余地が大好きなのだな、我々は。
だもんで寅さんの啖呵売だって大好きなのだ。あんな風につるつると話されたら、つまらないゴム紐でもしょうもない雑誌でも買ってしまうのだ。
帰り際、車の中で上機嫌で忠臣蔵の弁士を演じる父と、次は寅さんを見に行く約束をして別れた。
もう亡くなった寅さんはどんな風に蘇るのかしら。そこにだって、想像も妄想も止まらない。
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