君拾帖

■くんしゅうちょう■  すきなことだけてきとうに

架空と現実

モンシロチョウの幼虫の住み家であり、潰した青虫とおなじ匂いのする甘藍が、この漫画のクライマックスを支配する輝かしいキャベツたりえようか?ぼくは現実の甘藍を拒否し、架空のキャベツに夢想の核をおくことを選んだのである。
(中略)
そこでぼくは、書物のうちなる架空の言葉を、架空なままに受けとって楽しむことで、自分としてはどうにもうまく関係づけのできない現実の事物から遠ざかることにしたのである。
           大江健三郎「壊れものとしての人間」より

年の離れた弟が高校受験に失敗した時に言った言葉が傑作だった。
高校ってホントに落ちるんだな
当たり前じゃないかと笑いつつ、その「現実感のなさ」がわからなくもなかった。
「受験」なんて世間で大騒ぎされているお祭りが自分の身の上にも現実の重要な出来事として降りかかるのか、まるでフィクションの世界にいるようにふわふわする感覚。

きっと厳しい大人は呆れ返ることであろう。現実逃避だと。その通りですね。
でも私もそうだった。そして今でもわりとそうだ。

子供の頃住んでいた町は、丹沢山地に程近く、すぐ後ろにたつ富士山を丹沢の山々がきれいに隠してしまっていた。
だから思っていた。テレビや図鑑にのっているあの富士山は、きっとどこかすごく遠いところにあるんだろう。
もしくは実在しないに違いない。

まさかあの丹沢の後ろに実在しているなんて思わなかったから、今でも富士山を見ると「こんな近くにあったのか」と少し不思議な気持ちになる。

去年の夏はスペインに行った。
父が「死ぬまでに一度サグラダ・ファミリアが見たい」と言うので、この機について行かなければ、私も一生見ることはないだろうと思ったのだ。

これを見に来たのに、いざ目の前にして、ガイドブックと同じだな、本当に普通にあるんだな、と思いながらガイドブックと同じ写真を撮って、なんだかこれが現実なのかフィクションなのかわからなくなる。

小学校にあがる頃、父親が子供用の図鑑をずらっと揃えてくれた。「昆虫」は気持ち悪いから見なかった。「人体」も苦手だった。印象に残っているのは「日本」という図鑑で、各県の特徴などが写真付きで載っているが、そこに千鳥ヶ淵の桜の写真があった。

まずもって皇居の存在自体が子供の私にとって現実のものと思われなかったし、お城の周りに「千鳥ヶ淵」なんて素敵な名前の場所があって、桜も美しくてボートが浮かんでるなんて完全にお伽噺の世界のように思えた。

ここ数年、九段下の会社に勤めるようになって、生まれて初めて靖国神社千鳥ヶ淵に行った。
そして毎年千鳥ヶ淵の桜を見るようになった。

見るたびにいつもあの図鑑を思い出す。そしてあの図鑑の中の世界に今いること、あの世界が実在したということに何度だって驚いている。
きっとまだ現実感がないんだ。

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