卵の思い出

鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。
             ヘルマン・ヘッセデミアン

とか言うとカッコいいけれど、卵にまつわるエピソードを思い出そうとすると、どうしても生活臭い、ちょっとしみったれた、どこか切ない話ばかりな気がする。

やれ昔は卵が貴重品で、だの「クラスの女の子が家でアヒルを飼っていたので、アヒルの卵の目玉焼きをお弁当に持ってきてクラスメイトにからかわれていた」だの。
卵、という存在があまりに身近なせいか、他人のエピソードを聞いても、まるで自分が体験したかのように生々しく身近に感じたりもする。
向田邦子の「薩摩揚」というエッセイには、足の悪い女の子のお母さんが遠足の日に見送りに来て、級長だった向田邦子に風呂敷包みいっぱいの茹で卵を手渡す場面が描かれている。

ずっしりと重い包みの中は茹で卵で、「みんなで食べて下さい」という意味のことを聞き取りにくい鹿児島弁でいって、子供の私に頭を下げた。私は今でも、茶色の粗末な風呂敷と、ほかほかと温かい茹で卵の重みを辛い気持で思い出す。

新装版 父の詫び状 (文春文庫)

新装版 父の詫び状 (文春文庫)

学生時代、日韓学生会議という学生交流団体に所属していて、夏にみんなで韓国に行ったことがある。同期にマサコという非常に変わった女の子がいて、まるでムンクの「思春期」という絵の中の女の子みたいに、いつ突然叫びだすやもしれない緊張感を常に湛えていたのだけれど、そのマサコがソウル行きの飛行機に搭乗するやいなや、いきなり茹で卵を食べ始めた。あたりに漂う茹で卵臭。そこは一気に成田でも飛行機の中でもなく、硫黄臭漂う箱根へと変貌した。
恐る恐る「なんでいきなり茹で卵?」と聞くと彼女は真顔で答えた。
「飛行機に乗るのが初めてだから気持ちを落ち着かせたい」
「ゆ、茹で卵を食べると気持ちが落ち着くの!?」…と誰もが思っていたけれど誰も口に出せずに黙り込んだ。
あの腫れ物感と茹で卵の匂いのやるせなさは向田邦子のエッセイのようだった。

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子供に大人気のこの物語さえ、最近では卵を奪われた鳥の気持ちの方が気にかかる。

さて、12月にはくみちょうさん(id:Strawberry-parfait)に忘年会で神保町の中華料理屋さんに連れて行ってもらった。くみちょうさんが以前から何度も「美味しい」と絶賛していたお店。とてもスパイスが効いていて、中華とエスニックの融合みたいな感じで美味しかった。
そこでくみちょうさんが「ピータン豆腐」を注文してくれたので、本当に久々にピータンを食べた。

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こんな感じのやつ。
人生で一番最初にピータンと出会ったのは、学生時代アルバイトをしていたバーミヤンだ。これまでウェイトレスをしていたけれど、ちょっと接客に疲れて厨房のアルバイトに応募したのだ。あれは本当に体力、瞬発力、判断力の問われる仕事だった。毎日餃子に追われた。

土日は開店前から入って、仕込みをする。
餃子マシンを立ち上げ、試し焼きをする。米を沢山研いで、すぐに炊く分とストック分に分ける。ザーサイを塩もみして味付けし、小皿に10段くらいセットする。フライヤーに油を張って電源を入れる。卵を一つ一つ確認しながらボウルに割り入れたあと、混ぜて濾して卵液を作る。調味料やタレを全部、きれいに洗ったホテルパンにセットする、トマトやレタスを切っておく。小さなセイロにシウマイを10段くらいセットする。引き出し型の蒸し器の電源を入れて、温度があがったらシュウマイと、そして大きなセイロに4つくらいピータンを入れて蒸す。
初めて見るピータンは、わけのわからないものに包まれた爆弾みたいで、しかも蒸している間なにか泥のような変な匂いがするので恐ろしかった。
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蒸しあがったピータンの藁と泥を洗い落とし、殻を剥くと、コーヒーゼリーみたいな色の卵が出てくる。それを言われたとおりに恐る恐る切っていると、社員の人が「ピータン食べたことない?じゃあ1個味見してごらんよ」と言って食べさせてくれた。
あれが人生最初のピータンだった。
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昨日は、中華食材をあれこれ買いに中華街へ行ってきた。そうしたらピータンを見つけてしまい、「あ、こないだ食べたピータン豆腐が作れるな」と買ってきた。久々だし一応ネットで食べ方を調べると「そのまま殻を剥く」と書いてある。「え?蒸さないの?」と驚いて、更にいろいろ調べたところ、そのままでも食べられるが蒸すことによって臭みが消えて食べやすくなるとのこと。
ああ、そうか。だからバーミヤンではわざわざ蒸していたのか。今更納得して、私もピータンを蒸した。

台所にもわっと広がる、あの泥のような独特の匂い。
それを嗅ぎながら、あのハタチの頃の、餃子に追われた日々を思い出していた。本当に忙しくて大変だったけど、楽しかった。ランチのピークがすぎた後、みんなが休憩に入った静かな時間に油を掃除したりディナーに備えて補充をしたりする地味な時間が好きだった。ものすごい大失恋をしたのもあの頃だった。泣きながら洗浄機を回していた。
ちょうど卵の中から抜け出して大人になろうとしていた時期だ。
あの日がなかったら、きっと自宅でピータンを食べようとは思わなかったな。
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久々に見たピータンのきれいな松葉模様。

卵の思い出っていうのはどうしたっていつも生活くさくてしみったれて、カッコ悪い、生々しくてやるせない。
あーあ、いろいろあったな、と少し笑ってしまいながらピータン入りのお粥を食べた。