息を呑む日々

昔、劇団で働いていた頃、千穐楽間近の公演のチケットを予約したお客様にこう聞かれた。
「当日はビデオ撮影してもいいですか?」
いやいや、ダメです。ダメ!何言っちゃってるのかしら、とお断りしたらお客様はちょっとお怒りで言った。
「もうすぐ千穐楽で終わっちゃうんですよね?ビデオ撮らなきゃ二度と見れないじゃないですか!!」
…そうね、そうですね。でもダメです。舞台とはそういうものなんです。一期一会だからねえ、なんて同僚たちと笑いあったけれども、あの時は一期一会の意味なんて全然理解していなかったな、と今になって思う。


ミシェル・ルグランも亡くなった。樹木希林も浅利先生も逝ってしまった。大杉漣市原悦子かこさとし菅井きんも。加藤剛もジバンシイも梅原猛も衣笠も。みんなみんな死んでしまった。
そんな訃報を目にするたびに息を呑む。そろそろかな、と覚悟はしていたって、パソコンの画面の前で「え!!」と声をあげて固まってしまう。
ちょっと前までは「もう誰が生きているか死んでるかわからなくなってきちゃった」と笑っていた。森繁久彌が亡くなったとき、久彌が死んだことだけは覚えておこう、と思った。
でももう、なんだか、生きていても死んでいてもそれで構わないような気さえしてきた。
いつだって何度だって思い出すし、死んだということさえ忘れてしまうし、昔の映画を見たり本を読んで、毎回感銘を受けたりする。それでいいわ、と思う。
それでも、時折ふと、最近見かけないあの人はお元気かしらと思うし、「生きてるうちに会っておかねばな」とも思う。
それで先日は久々に谷川俊太郎の講演会に行ってきた。
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お元気で良かった。昔、講演会で見かけたのと何も変わらないような気がしたけど、きっと本人的には大きく違うだろう。駄菓子屋のおばあちゃんが昔からおばあちゃんだったような気がするけど、自分が子供のころ、あの人まだ40代、みたいなもんだろう。
谷川俊太郎は言っていた。
「小学校に講演に行くと子供に『生きてる!』って驚かれる」と。
子供にしてみれば、教科書に載ってる作品書くような人はみんな死んでいると思うだろう。その気持ちもわかる。
でもきっといつか、本当に息を呑む日がやってくる。

あたしとあなた

あたしとあなた

装丁の美しい詩集を買ってサインをいただいて帰ってきた。
もし、いつか息を呑む日がやってきても、作品が残っているから、生きていても死んでいてもいいような気がする。もし亡くなっても生きている時と同じくらい何度だって詩を読んで胸を打たれるだろう。
そういう意味で、映画や文学は残っているからいいな、と思う。舞台は違う。
11月に友人とミュージカル「CATS」を見てきた。

CATSを見るのは10年ぶりくらいだ。演出もずいぶん変わっていた。それで友人と「あの時のアレが」「あの人のグロールタイガーが」なんて話をずっとしながら、「もう二度とあのキャスト、あの日のあの舞台をみることはできないんだな」と痛感した。退団した俳優、亡くなった俳優、亡くなった演出家…もし生きていたって、毎日同じ舞台は二度とない。
それが一期一会ってことだったんだなあ、と思う。
舞台の感動、というのは見ている間に興奮して息を呑むことでも、終わった後にしみじみ良かったとため息をつくことでもなく、もしかしたら、何年も後に「あの日のあれ」と思い出して、そしてもう二度とそれが訪れないということにハっと息を呑むことなのかもしれないな、と思う。

残るもの、残らないもの、そうしてみんなそのうちいなくなる。