君拾帖

すきなことだけてきとうに

明日死ぬかもしれないし

進路なんて問われだしたのは小学校高学年くらいからだったと思う。
「将来何になりたいのか、そのために具体的にどうするのか、高校はどこに進むのか、大学はどうするのか・・・」
そういう事を考えるのが心底苦手だった。特に目標もなりたいものもなかったし、先のことは全くわからないんだけど、とりあえず周りの大人が納得するような答えを出さなきゃいけない、という事になにか脅迫めいたものすら感じていた。
それで進路相談の時はいつだって「だって明日死ぬかもしれないじゃん」なんてしょんぼりしながら職員室を後にした。


<サグラダ・ファミリアの螺旋階段>

大人になったら先のことも簡単に考えられるようになるのか、と想像していたけれど、まあそんな訳ない。

2000年を過ぎた頃は、PCで西暦を入力するときにしょっちゅう「2200年」なんて打ち間違えて「もう死んでるわ」としみじみした。

職場で誰かが仕事を抱えこんで、周りに情報共有しないと同僚は憤る。
「明日、死んだらどうすんの!誰もその仕事わかる人いなくなっちゃうじゃん!」

ある日突然、以前の会社の同僚が亡くなったという連絡が来た。
死因は誰も知らないみたいだった。
あれこれ考えてみると、改めて、世の中には死に至る原因が多すぎて愕然とする。
事故かもしれない、好きだった登山で山から落ちたかもしれない、病気かもしれない、事件かもしれない、自殺かもしれない。

ずっと10年日記をつけ続けてきた祖母が80を過ぎたら弱気になって「もう5年日記でいいわ。10年後死んでるかもしれないし」と言い出して、「何言ってるの、まだまだよ」とお約束の返事をしながらも、ご要望の5年日記をプレゼントしたら、5年日記が2冊目に突入…というのはいい話。

それで私も5年日記をつけ始めて今3年目。3年前の今日のことなんてつい昨日のことみたいに思える。それでもこの日記帳を書き終える、あと2年後のことはまったくわからない。

だから、来年2018年1月のアレクサンダー・ガヴリリュクのコンサートチケット買うのだって散々悩むんだよな。
「来年なんて死んでるかもしれない」って。

毎回そんなこと言いながら、それでも年月を重ねられるのは幸福なことなんだな。

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